館長備忘録 セカンドシーズン(46)
突き抜けることを祈念しています。
そのために
霊峰・御嶽山の麓で
我、身心脱落
(我執からの解放 by カン)
できたらいいなと思っていたのですが・・
さて、今回のおんたけ講習会では
相対する稽古では
「立合(たちあい)」意識を高めることの大事
についても考えました。
ちなみに
「立合」と「立会」は違います。
辞書的には
【立(ち)会う】は
のちの証拠にするため,また監督や検査などのために,
その場所に居合わせ確認すること。また,その人。
「第三者の−のもとで」
一方、
【立(ち)合う】の場合は
@ 相撲で,力士が仕切りのあとに立ち上がること。
A 能で競演すること。
(三省堂 大辞林)
さらに「能で競演すること」については
たちあい【立合】
猿楽,田楽(でんがく)などで競演すること。
2座または2者が別々の曲を出して競う場合と,
同一曲を相舞(あいまい)で競う場合があった。
(・・中略・・)
世阿弥の「風姿花伝」には,
猿楽の「勝負の立合の手立て」が,
「申楽談儀(さるがくだんぎ)」には「立合の心得」などが述べられている。
(世界大百科事典 第2版)
とされています。
おんたけ講習会で
作道範士の指導稽古を拝見していて
気づいたことなのですが
範士の指導稽古は
「指導」ではなく
全ての方と
相舞(あいまい)で同一曲を「立合(競演)」として
元立っておられるということ かな。
指導稽古的な視点で見取らせていただくなら
範士は
「さあ来い!、繋げ!、全部出せ!、打ちたかったら、
さあ、いつでも!」という感じで お相手を引き出し
お相手の打ち出しに足りないものがあると
「そんなんちゃうやろ」とすりあげ面、
(場合によっては、迎え突き・・・・・)
こちらの気が滞ったら
「こら!」と小手 といった感じの稽古
に見えるのですが
立合意識の視点から観取らせていただくなら
競演のために
存在を明らかにして、
さらして、
認めて、
気の充実と高まりを求めて、
詰めて
どんどん詰まっていって,
でも、欲しがらず,
自分を捨てて、
捨てるという意識すらなくなって、
最後のところで余計なことをせずに
何かが(それが)スパッと放たれる
ことを求める といった感じの稽古
に観ることができます。
(これは私が勝手に感じたことです)
そして
このように観取った場合に思えることは
このような立合意識を身体化することが
ブレイクスルーへの端緒かもしれないな
ということでした。
おぅ、哲学的になってきたぜぃ。
2016年10月06日
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